オンライン販売は8月24日(日)12:00~
80〜90年代のアニメ、SF、ファンタジー映画、ソフビ人形、アクションフィギュアなどから影響を受け、関節により可動するフィギュアのフォルムをベースとした木彫作品を中心に展開させている。
昨年WAITINGROOMでの個展で発表した新シリーズ。1868〜1984年にパリで実在した「空気郵便」の地下ルートをたどり撮影した風景をポストカードサイズに手焼きし、切手と住所ラベルを貼って実際に郵送する。届いた状態をそのまま作品化し、切手や消印も残る唯一無二のモノクロ作品となっている。使用している印画紙は20年前のもので、まるで古い時代のような風合いを帯びており、時間を旅してきたかのようなイメージを生み出している。
本作は2007年に上海美術館で行われた企画展“Japan Caught by Camera” に出品するために上海現地の版画工房で製作した作品《Annular Eclipse》シリーズの小型版で、雑誌や新聞の切り抜きを使い、逆光で撮影してシルエットを作る手法で制作した。実物の舞台セットやライティングを用い、アナログとデジタルを往復しながら最終的にシルクスクリーンの版を作成している。
今回の作品では、赤と青という対照的な色に、記憶や風景の感覚が重なっている。赤は大地のような濃密さを、青は海や空の広がりを想起させる。絵画の中でそれらの色面が交差し、記憶の断片や何かしらの構造が浮かび上がる空間を形づくっている。
鳥や人などの具体的なモチーフと、現実とは違う抽象的な空間を混ぜた絵を描いている。具象と抽象、明るさと暗さ、屋外と屋内など、異なる要素を同じ画面に共存させながら絵を進めることで、より複雑で強度のある絵画空間を作ろうと考えている。今回の2点はそれに加えて光を意識した。現実に近い光と、色から発される鮮やかさを組み合わせ、絵の四方から細かな光を感じられるよう描いた。
本作は不可視の「光」をモチーフに、その顕現をキャンバス上で再構築する。光は万物に共通する普遍的テーマであり、純粋な美との共鳴を追求する。グラデーションは人間の営為の交錯と重層性を、セパレーションされた構成や直線フォルムは世界構造への内在的帰趨を示す。これらの形式的要素を通じ自身の実体験に基づく世界への〈眼差し〉を投影し、鑑賞者との美的共感を育むことで、アバンギャルドにおける芸術的命題〈救済〉への媒介を試みている。
キャンバス上を覆うアクリル絵の具による色彩は、普段見ている世界のどこかの光景 のようである。そして、ドローイングはその絵の具の影響を受けずに、キャンバスの地の部分を線として描かれている。それらはまるで太陽によって物質が感光する現象を取り入れた青写真のように、キャンバス上に色面の現象を広げる。そこに立ち現れるドローイングは、人間が独自に作り出したイメージの抜け殻のようだ。
本作は自身のアトリエに額縁を設置している様子を撮影し、その画像をプロジェクターで同じ場所に投影する。再び同じ視点で撮影するというプロセスを複数回くり返し、さらにその画像をシルクスクリーンとアクリル絵具を用いてキャンバスに刷り重ねている。自身の制作プロセスと、そこにまつわる時間の経過を第三者的な視点で描いた作品である。
本作は古い額縁をモチーフにしている。この古い額縁は、かつてどこかで、他の絵画を縁取り展示されていたであろうことを想像させる。額の中に物質としてはそれらが残っていないにも関わらず、縁取られたであろうイメージや縁取った事象は堆積していき、そこには無数の時間が収束しているように思う。この空の額を壁に掛け、撮影し、そのイメージを額の中心部分に投影し、さらに撮影という工程を複数回繰り返す。そうすることで、積層した時間を一部を表出させることが出来るのではないかと考えた。
ロンドン滞在時に周りに山が見えないことから始まったシリーズ。想像上の山であるが、観る人にとって既視感のあるような山になることを狙っている。
網膜剥離になった時の視覚経験が元になっている。窓越しに見える外の風景と室内の空間が曖昧になっていくような経験だ。鎮守の杜、カーテンは境界を表している。
古来より森は人類を拒絶する領域として存在した。そこには何か崇高なモノがあるように感じる。
純金箔や和紙、膠など日本の伝統的な技法と現代のカルチャーをミックスした作品。スケートボードの人物は連続的に描かれており、ビデオテープの映像的なイメージを取り入れている。下の文字は覗き込むと読めるようになっており、タイトルの「be kind rewind」(レンタルビデオの巻き戻して返却してくださいの意味)が描かれている。
柿渋染めをした和紙に墨と純銀箔、胡粉などを使い描いている。山水画をサンプリング(再構築)し、90年代の映画などに出てくるUFOを純銀箔で描いている。今と昔、時間の流れを超えて様々な場所に登場する神秘な存在としてのUFO。是非、経年による純銀箔の変化なども含めて楽しんでほしい。
代表作「イロノツラナリ」のポピー作品は、花の観察とスケッチを通じて学んだ姿勢から生まれた。鮮やかな赤・白・黄色の花々が咲き誇り金箔地に描かれた作品は、花のリズムが強調され多くの人々を魅了する。その魅力は国籍や人種を超えて広がり、日常に飾ることで鑑賞者との距離を縮めることを目指している。
夏の草原は青々として、果てしない拡がりを見せてくれる。しかし地形は完全に平坦なわけではなく、案外起伏に富んでいる。その起伏が特に大きな場所が、丘や山となっている。木々もまばらに、緩やかな勾配のそれらは、一見するとそれほど距離があるようには見えない。しかし、歩いてみると後悔することになる。シリンゴルで一度失敗している私は、遠望するばかりである。でも時々、あの山を越えた雲の下に拡がる景色を見たくなる。
MRAによって自身の脳の血管をCTスキャンによって撮影し、それらをモチーフとして扱った銅版画による版画作品。近いようで遠い、遠いようで近い、そんな思考の深層世界を表現した。そこには複雑に絡み合うリゾーム状の思考の構造がいくつも見え隠れしている。また脳の「ゆらぎ」によって生まれる一瞬の閃きをイメージしながら、1枚の版を回転させ、1枚の紙に幾重にも重ねていくことで可視化した。
2023年の個展「これは人間ですか?」で発表したチャットAIと一緒に制作したClippingシリーズの新作である。
本作品は「死ぬという前提があるからこそ、生に正面から向き合う」という姿勢に基づいている。「FAMILY」は血縁ではなく、自分の価値観を揺さぶる異物との出会いを指す。「存在」は、目に見えない気配や、不在の中にある在り方を問う作品である。こうした探求は、死と滑稽さが共存する浮世絵の精神や、「どうせ生きるなら楽しく」という快楽主義とも接続している。
本作品は、「錫(すず)」を用いた金属彫刻の技術を駆使し、生命のエネルギーを抽象的に表現している。作品には赤や黄色、緑などビビッドな配色がよく使用されるが、当作品は水流を思わせる青を基調とした配色となっており、流動性を強く想起させる。金属という硬質な素材で流動性や立体感を表現することで、鑑賞者に新たな視覚体験を提供し、生命の根源的な力強さと美しさを感じさせる。
世界の微かな揺らぎにふれたとき、行為は静かにほどけ、存在と世界の界面が、沈黙のうちに立ち現れる。Notationとは、触れられた気配の痕跡であり、界面をわずかに震わせる、存在の応答である。
時間や空間、人と人とのあいだにある「距離」を描いたシリーズ。遠景の無数の爆発は球体の光となり、Novaでは白く輝き、Nullでは黒く光を吸い込む。中央を貫く閃光は、隔たりと繋がりが交わる境界線のようである。世代や文化、国、視点の違いなど同じ時代に生きながら感じる隔たりと、思いがけず訪れる共鳴。そのあわいに生まれるエネルギーを光と闇で表現した。
美術史的な価値からこぼれ落ちた彫刻たちは、区画整理によってアトリエが取り壊されるまで生い茂る草木に覆われながら静かに佇んでいる。19世紀後半に裸婦の概念が西洋から持ち込まれてから、日本の芸術家たちはこぞって裸婦を「美の象徴」として表現し続けてきた。崇拝されていた時代が終わりを迎え、解放された肉体として残る彼女たちの語られてこなかった言葉なき声に耳を傾ける。
目に見える画面の下に隠された絵の具の重なりや絵画の構造を顕在化させる試み。ただの物質に過ぎない絵の具の層が上書きされ幾重にも重なり、最終的には1枚の絵画が立ち現れる、そのドラマチックな生成過程に焦点を当てて制作した。
制作拠点であるニューヨークの街中で日常的に目にした光景を、スケッチの要素も含めながら制作したシリーズ。ダウンタウンのMyrtle Avenueの駅で会話をしている見知らぬ男女の姿を描いている。
コロナ禍において「人と自然との住み分け」を意識するようになり、自然との調和が深い日本画の素材や日本絵画における題材を用いて、人と自然が共に在るあり方を探るようになった。人間を人間たらしめるもののひとつに「美」があるとすると、その「美」をどう画面に落とし込み、後の世に伝えていくのかということは課題のひとつである。ただ、単に画面が美しいだけではなく、鑑賞者の視点や想像力に委ねる構造を意識している。
2025年に故郷で行った個展での作品である。今後も挑戦していきたい「富士山」というモチーフと今までのタッチ、自身のプライベートや趣味などを反映した作品だ。タイトルに仕掛けがあり、見てわかる人にはわかるタイトルになっている。
連作を制作したいと考え、日本の有名な言葉を調べて「みざる、いわざる、きかざる」を選んだ。過去に一度同じようなモチーフを制作したことがある。当時の作品と比較すると今回は小さなサイズで制作した。
発泡ポリウレタンで作った不定形な塊に、既製の額縁を押し付け固着させている。ウレタンのコントロールできない自然にできた形を「本来の形」としたとき、額縁は人間が物事を単純化しようとする営みや不正確な補間を意味する。「本来の形」を物質世界や人の感情、性格などに置き換えると、フレームは科学や言語、他者からの印象などに対応する。「approx.シリーズ」では近似をテーマに、このような単純化された形への変換で生じる差分を可視化しようと試みている。
原子や分子といった極めて小さなスケールで現れる現象や原理は、科学技術や医療など多岐にわたる分野に応用されている。一方で、それらの現象や原理の多くは人間の直観に反する性質を持ち、どのように解釈するかという哲学的領域に達している。「ℏシリーズ」では、我々が日常的に体験し想像し得る当たり前とはかけ離れているものが、社会の基盤を成していることを象徴する半導体を素材として使用し、現実世界の構成要素が不可解なものである不気味さや、人間が理解し得ることはほんのわずかであることを表現しようとしている。
「ℏシリーズ」と「approx.シリーズ」の中間的な位置づけの作品。複数の斜めの直線で構成されており、途切れた部分は不規則に広がっている。作品の構成要素として、直線は人間が規定した概念、不規則な広がりは規定の外にあるものに対応する。作品全体では、人工的な回路と自然の雨のどちらにも見えるよう制作した。
有機的な線やサイコロの目、そして意図性を持って生まれた錆が三次元的に交差する画面は、コントロールの及ばない様々な要素に干渉されながらも歴史を刻んでいく人の生を描いている。
従来の行構造を離れ、漢字を二次元空間に布置し多焦点・多方向的に接続することで、新たな文脈を紡ぐ。《ki/u》では「キ」「ウ」と読む漢字を降雨のイメージに沿って配置した。基底には雨乞いを示す「祈雨」があり、同音の多彩な語へ派生していく。線的拘束を解かれた文字は画面上に同時的に存在し互いに、無数の縁を結ぶ。祈りのイメージを介しながら形態・音節・意味が共鳴する詩を生成する。
直線を何度も重ね合わせることで自然を描いている。私にとって、自然を描くということは、自然物をそのまま再現することではない。自然を形作る秩序や相互関係を見出そうと試みているのである。具体的な「自然」を想起する一歩手前、言葉や形が自然を切り分けてしまう以前の風景、私はそれを「名を持つ前の自然」と呼んでいる。自然を構成する秩序や相互関係を直線の重なりによって浮き彫りにすることでそれを描く。
水面に映る景色は美しくも生々しく、まるで水中の奥深くにも世界が広がっているような錯覚を覚える。そして気付かされるのは、この美しい風景は今自分の周りに実際にあるものだと言うことである。それまで気にとめていなかった風景が、水面に映ることによって急に色鮮やかに見える瞬間。グレートーンで描かれた部分は、当たり前すぎてあまり気にとめていない、ほとんど変わることなくずっとそこにある世界を表現している。
一人暮らしの男性のお家に、いつも窓辺に立ち寄ってくれる鳩というストーリーを想像して描いた作品。ふたりの時間を一粒の甘いストロベリーチョコに見立て、ピンクの線を使うなど、物語性を表現している。
本シリーズは作品が作り出される過程と時間を絵画にする、という考えがもとになっている。具体的なモチーフとしては、樹木やその年輪があげられるが、それらの具体的な姿を描いた作品ではない。強く意識していることは、作品を自然な状態で存在させることであり、その作品の在り方や潜在感をモチーフである自然物の領域に近づけることである。
筆を動かすたび、紙の繊維や一筆、空気の湿度などに影響を受け、作品の存在がかたちづくられていく気がする。“となり”は単なる隣接ではなく、自身を形作る外部の力であると同時に作品もその関係性のなかで観る者とともに形を成すものだと考えている。
北斎の「諸国瀧廻り」と、NYのアッパーイーストにある、滝が室内を流れる高級マンションから着想を得て制作。抽象度を高めるためデザイン化した水流を描いており、中央に描かれた線は、目線を誘導すると同時に水の循環を表している。また、特徴的な青は日本画で一般的に使われる群青ではなくウルトラマリンブルーを使用し、新たな青の美しさを作ることにも挑戦している。
ゲーム内の吹き出しをサンプリングし、プレーヤーに選択が委ねられているようでその実、ゴールに向かうよう価値観の誘導と条件付けがなされているゲームシステムと、資本主義社会の現状を重ねた。
2004年より発行されているE一万円券(福沢諭吉の一万円札)の裏面に描かれている宝相華の図像をサンプリングして絵画としたもの。赤瀬川原平の模型千円札を参照しつつ、紙幣という印刷された紙、あるいは電子データに付与される、かつては金によって担保され、現在は実体のない「信用」によって形作られる「価値」について問いかける。それは、布と絵の具によって作られた「作品」に付与される「価値」と相似する。
アクリル絵具で即興的に色を選び乗せていった。 ペインティングナイフを多く使い描かれたこの作品は、何種類もの絵具がキャンバス上で混ざり合う。 そうして現れたライオンは、荒々しく力強いが守るべきものを守るための優しさを持つ。 一方、眼差しは細い筆を使い繊細に描いている。 この作品を見た時、絵具の流れやタッチからライオンの呼吸を感じさせる。 それはまるでエネルギーが湧き上がってくる源流のようだ。
ペインティングナイフで油絵具を重ね、いくつもの細かなタッチによってモザイク画のように仕上げられたこの作品は、近づいて見ると抽象度が高く、離れて見ると漸くモチーフがライオンだと認識できる作品。 それはまるで幸せに気づく瞬間のようだ。離れてみてやっとわかる幸せ。 もうすでにそれは近くに広がっているということを伝えたい。まずはこの作品を見た人からその気づきを広げていこう。世界平和を願っているライオン。
コラージュを描き起こしたもの。
不確かなものや、移り変わっていくような曖昧な存在について興味を抱いている。そのきっかけとして、光や色彩があり、人体がモチーフとして存在している。これらの作品では、色彩の光学的な側面に注目することから始めた。反射・屈折・フレアといった光の重なりのなかで、移り変わっていく時間や感覚の変化を意図している。
U-kuの作品は「孤独の再定義」を主題とする。幼少期に海外移住と帰国子女としての経験から文化的違和感や心情的断絶を経て、多様な孤独を集団の中で感じてきた。だが孤独は偶発と決断の交差点でもある。水彩の滲みは予期せぬ出来事、他画材はそれへの応答を象徴する。最後に少女のモチーフを加え、鑑賞者の記憶と照合することで、鑑賞者と作品間には一対一の対話が生まれ、孤独が再構築される装置となる。
白いジャスミンの花が持つ神秘さや優美さ、無邪気な可愛らしさを表現。また、素手による独自の手法で花と葉の質感を表し、優しさと生命感を宿した。キャンバスの縁まで描くことで、花言葉でもある「幸福」が、画面の枠を超え広がっていきますように。
もしも無重力の宇宙空間にお花が咲いたら…そんな想像から生まれた1枚である。重力の束縛を超え、無限に広がる宇宙(そら)に、幸せの象徴である花々がふわりと舞いながら咲いている。素手を使ったオリジナル手法に、リズムを交えながら制作した。
本作は、前作「さくら」に込めた優しさや華やかさに加え、枝と花の双方が持つ生命力そのものに焦点を当てたシリーズである。枝の部分は、身体を使ったドリッピング手法によって描き、まるで木が呼吸し、躍動しているかのようなエネルギーを放つ。花々も素手を使ったオリジナル手法で描いた。枝の動きと共鳴するように咲き誇り、自然の中で生きる力強さと繊細さ、共存を表現した。
素材と視覚認知のズレを通じて、「意味」と「認知」の相対性を問い直す作品。木の合板がコンクリートを模すことで、実体と表象の境界を揺さぶり、知覚の多層性や現実の不確かさへの内省を促す。
タイトルは漂うを意味する。エアブラシを描画道具に用いる。メモの文字、山のある風景をなぞったりしながらそれらをマスキンで切断しながら空間を作り出す。流動的で時間と空間が混在する平面だが奥行きのある新たな風景絵画を目指し制作した。
タイトルは街灯を意味する。「drifting」と同様の工程で制作した。モチーフは普段書き留めているドローイングを用い、抽象性はありながらも、少し具体的なイメージを持ってもらえるように描いた。夜道の街灯を辿り歩く様に、画面のイメージを頼りながら絵の中を漂ってもらいたい。
最近は自分と他者との関係性に存在する趣きと尊さに重点を置き、自分が作品を制作することになるきっかけを大切に制作した。私にとって大事にしておきたいものを作品として残し続け、芸術家としての人生を全うした時、なぜその作品を作ったのかを語れるようにしたい。
本作は、理想化された身体像を主題とする《残像偶像》シリーズの一作。AIが生成した複数の人物像をコラージュし、肌の色や仕草が交錯する重層的な身体を描くことで、現代における欲望と身体規範の曖昧さ、そして匿名的イメージの不安定な生成過程を可視化している。
街で歩いていると出会う誰かが使っていたハンカチや小さな片方だけの靴下、朝起きて着替える時に脱いだ衣服。誰かの痕跡が残っている衣服や布をモチーフ描いている。他者を想像するときのその人は衣服を身につけているのではないだろうか。脱がれた衣服は誰かの脱け殻であり、その人自身でもあるのかもしれない。どこまでがわたしといえるのか、あなたといえるのか、探るように抜け殻としての衣服を描いている。
写実の抽象のあわいに立ち、眼前の物に対峙する。実体とデフォルメが混在する画面は現実と幻の境界を曖昧にしていく。
静寂の中の動きを見つめている。現実がかすかに揺らぎ始めた瞬間に、静かなエラーが現実性を裏切っていく。
夜行バスで移動する寝たいけど寝たくない考えてるのと、考えてないの間の時間サービスエリアで降りたとき、外の風が気持ちよくて空気ごと絵にしたいと思った
船がだんだん街に戻っていく頭の中に浮かぶ風景夜の海は景色が1つになるその中を点々が並んで移動する
2024年に取り組んだ福岡城跡の潮見櫓仮囲いウォールアートプロジェクトにおいて、全長50mの壁画を大和絵を参照して制作したことから着想を得て生まれた作品。日本の伝統的な空間表現である平行遠近法や俯瞰的視点を取り入れ、大和絵に描かれた建造物をサンプリングし、それらを無作為に組み合わせて新しい空間を構成している。この3点は平安時代後期に描かれた「源氏物語絵巻」を参照した。
この作品は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に登場する源頼朝公に献上された前脚5本、後脚4本の計9本の脚を持った「多足馬」をモチーフに、過去も現代も虚実混沌とした情報を油彩と現代的なマテリアルのレイヤーで表現しようと試みた。
山に行きたい海にも行きたい、旅にでたい。虫を探したり無意味にピースして写真とったりしたい。そういう気持ちの絵。
日常的な仕草や道具、果物をモチーフとして、身体が戦争や差別といった大きな暴力に強く影響されることについて描いている。今回は、息苦しい社会の中で軽やかに生きる少女をイメージした。
風船やビスは幼少期や現在進行形の記憶から掘り起こした社会を表現した忘れられた消費物をテーマとした作品である。Fragile screwsは本物のビスと違い、最初に壁に穴を開けてあげないと壁に刺すことができず、何かを引っ掛けるなんて論外である。強く握ったり落とすだけで簡単に折れてしまう。そんな不自由で脆い状態にすることで、大量に生産されて埋もれる存在となったものの価値を考えようと試みている。
「Strata」シリーズは、粘性の異なる粘土を複数回塗り重ね、焼成を繰り返す技法で制作する。手仕事での作業と窯の熱によってテクスチャーを変化させる原始的な行為を土という素材を軸に何度も行き交うことで、内包する自己と社会との関わりを積層化し、視点によって異なる表情を見せる多様な要素が混ざり合った現代の地層を表現している。
染めた紙をはりつける方法で作品を作っている。中空状の形態(気球の部分)をはりつけることで、彫刻の輪郭が強調され、彫刻に絵画としての見え方が生まれる。彫刻としての形態の見え方と絵画としての見え方との間には距離があり、この距離に探求心を持って制作している。
絵画と彫刻の間に実体を作ろうとした作品である。実際のアルコールスプレーに紙を貼り、そのスプレーをくり抜き出した中空状の形を、キッチンの風景をモチーフにした彫刻にはりつけた作品である。キッチンの机に対する奥行きの抵抗感と、実際の壁に彫刻が設置される際の奥行きの抵抗感とを、類比的に作品へ見出し制作した。
淡雪のように朧に存在する私たちの生命力。絶え間なく脈打つ鼓動、思い出の地。消えてほしくない情報を、結晶化という自然現象を用いて凍結する。記録された心音や風の振動によって結晶はかたちを変え、その輝きは見えない記憶や気配をすくい上げる。
ストリートビューを用いて時間の重なりを表現している。撮影者の時間軸と被写体の時間軸が重なる瞬間が切り取られ、繋ぎ合わせることによって仕上がるパノラマ風景は、無数の選択された瞬間の結果によって成り立っている。それは太古から無数の選択の結果により存在してる私達や現代の世界とも通じている。
生き続ける庭のような絵、光を浴び放ち生命を感じる庭な作品が描きたいと気づかせてくれた2019年のフランスジヴェルニーでの衝撃的な出会いより、近年は作庭されたものの中に滞在し学び制作してきた。クロード・モネの庭、福沢一郎の庭、小川治兵衛作庭の国際文化会館。よく通る学校の花壇に、よりワイルドで自由を纏った作品を在らせたいという思いに駆り立てられていた中、オーストラリアにてワイルドフラワーに出会った。
現代を生きる私たちは、時に辛さや不安を抱えながらも、平静を装い、日々を歩んでいる。この世界でもがきながらも、幸せのかたちを探し続ける姿を描いた。
心動かされるものに出会った時、今まで見てきた世界に新しい色が宿る瞬間を描いた。
グループ展『Caravan 2024』に向けて制作した作品である。原状回復をコンセプトにした「マスキングテープで描く壁画」を続けていくうちに思いついたのが、消すための壁画にあらかじめキャンバスを敷いておきマスキングテープを剥がす前にその上からペイントするという本来のマスキングテープの使用法に戻すことで部分的に残せる形になるという単純なことだった。そのプロトタイプとして制作したキャンバス作品「Masking/Fixing」シリーズがあり、経過を視覚的に読み解けるようにマスキングテープで描いた同じものを2つ作り、それぞれ「マスキング状態」「塗装後状態」の対で観せる作品である。今回の作品タイトルは展示会タイトルの「Caravan」から、砂漠を行く隊商に見せる「蜃気楼 (MIRAGE)」に見立てた作品だ。情緒的に見れば、消えてしまうものから残せるものへと閉店を迎えたSansiao Galleryと作品コンセプトのダブルミーニングともなる。
赤い唇は人間の欲望の象徴である。唇は複雑な人間の感情や社会性、生命力を表現する、人が人たらしめる器官だ。「赤」は私にとって、美と毒の二面性を宿す、最も人間的な色彩である。日本古来の“朱”は、硫化水銀(辰砂)に由来する。漆に、化粧のように赤を纏わせることで、刹那の美と永続の力、生と死の境界を浮かび上がらせる。美しさの奥に潜む狂気や矛盾、抑圧された衝動に焦点を当て、多面的な人間存在を深く考察する。
視点の変化を描くことはできるのかを考えて制作。
11本の指を持つ門番は、見えない境界を打ち破るための象徴だ。古来、世界を守る十の方角には十の守護者が存在するとされる。その外側に立つ「11人目の門番」は、記憶と感性の領域を司り、無限の気配と原初の力を纏う特異な存在だ。荒々しく編み上げた画面は、日常や感情の断片を鋭く交差させ、観る者の中に眠る“もうひとりの自分”を目覚めさせ、湧き上がるようなエネルギーを解き放つ。
これ以上何も見ないようにすれば、感じる恐怖や痛みも和らぐかもしれない。けれどそれでは前に進めない。目を逸らすのは彼女に任せて、貴方は見逃してはいけないものだけを見つめられるように。悲しみを映して請け負い、洗い流す、鏡の中の人形#02。
彼女が手に持つものはナイフよりも慎ましく、スプーンよりも鋭いが、鏡の中であれば感情を剥き出しにしても、誰も傷付けることはない。彼女は衝動的な感情を映して請け負い、静かにフォークを突き刺す、鏡の中の人形#01。
狭くて少し暗いコンビニのジュース棚からの連想である。台風が来た時の暗さに似ていて缶ジュースを買いに来た台風が不器用に缶ジュースを適当な数落としていく様子を描いた。台風も良くない事をしているなとは思っているので、ちょっといたずらな表情だ。
初夏の昼間、のんびりと歩いている時にくしゃみがしたくなり、青すぎる空の眩しさでくしゃみを出しました。くしゃみをした私含め、今呑気に踊っている私達日本人を見守りながら、過去の日本人はさぞかし気が気ではないでしょう。この空の青さで、いつでもくしゃみができますように。
太陽を背にした象を中心に、キリンがその周囲を囲み、足元ではウサギたちがにんじんを差し出している。祝祭的な色彩のなかで、献上と崇拝の構図はゆるやかなヒエラルキーを形づくり、静かな搾取の気配を漂わせる。ポップなキャラクターの造形を通じて、現代における従属や欲望の構造を寓話的に描いている。
“Love it”シリーズでは、「ありのままの自分を愛していこう」という想いを込めている。好きなモノがある、そしてそれが好きな自分が好き、作品を通じて改めて自分という人間を考えるきっかけになればと思う。
ポップカルチャーを意識した鮮やかな色彩とスタイルの中に、桜餅の“もちっとした質感”と“桜の儚さ”を少女の姿に重ねて表現している。ピンクの髪に咲く桜、星の輝きを宿した瞳、そして周囲を彩る抽象的な模様は、日常の中に潜む甘くて切ない瞬間を象徴している。ポップでありながら、どこか幻想的な雰囲気も漂わせて、見る者の心にふわりと春の風が吹き込むような作品を目指した。
日常の中でふと訪れる“覚醒”の瞬間を描いている。黒猫は、人間の内側に潜む野性的な本能の象徴。中心に立つカンフー娘は、好奇心と衝動に突き動かされ、未知の世界へと一歩踏み出す存在である。1980年代のポップカルチャーを彷彿させるカラフルな色と形、エフェクトなどが躍動する画面は、日常が突然SF的な冒険へと変わる瞬間のワクワク感を表現している。
匿名性や“隠す”という形で行う 意思表示、内に秘めた欲望を体現しているウサギのマスクの男。恋に落ちていく中で、内面と外側に揺らぎが生じる瞬間を描いている。
親と子がひとつの影になって、世界を少し高いところから見つめている。
風景の中に流れる空気や、時間の移ろいといった目には見えないものを、土の表面に刻むように表現している。《Repetition ― 光 ―》と《足元の渦》では、「光」や「渦」といった、日常にふと現れる一瞬の気配を陶にとどめようと試みた。《対話》では、人と人が出会うとき、そのあいだに流れる空気をかたちとして捉えている。日常に根ざしながらも、時間や記憶の層が折り重なるような表現を目指している。
自然科学を考察し、主に野生動物をモチーフとした彫刻作品を制作する。作品と対面した時に、1/1スケールでしか表現できない空気感にこだわり、実物大で制作する。素材であるテラコッタ(土器)は作家の触覚 や軌跡がダイレクトに表面に現れ、躍動感のある作品となっている。
航海の途中、船乗りたちが日光浴をしている鯨の背中を島と見誤る物語は、中世において広く語られている。上陸し火を焚いた彼らは、目覚めた鯨により海底へと沈められてしまう。中世に描かれる鯨は、人間や船すら呑み込む巨大な魚として表現される。本作は、航海士たちがこのような“偽りの安息”に惑わされぬよう、マッコウクジラの腸内で生成される魔除けの力を持つアンバーグリスを納めた霊薬容器である。
古代エジプトでは、貧しい人々の死体は砂漠に投げ捨てられハゲワシの餌となっていた事からハゲワシは神や神の使者として崇められている。チベット、イランなどにおいても魂の抜け出た遺体を天に送り届けるため鳥葬が行われる。死肉を漁るハゲワシは薄気味悪く一般的に嫌われるが、不気味なだけに霊力も強いと考えられていた。この瓶の中には元々 “神や死者、守護霊との交信を行う薬” が入っており、儀礼用として使われてきた。
昇り龍が願いを天に届けるのに対し、降り龍は天から人々に幸運をもたらすとされている。梅に鶯(梅鴬)は古くから、非常に相性の良い美しい組み合わせの象徴とされている。また、「梅鶯の候」は早春の時候の挨拶として使われ、春の始まりを意味する。梅がほころび始めた春の初め、幸運を携えて挨拶に来た降り龍である。
“瑞雪”は、豊作の兆しや、めでたい出来事の前触れとされる雪のことである。モデルはエルク。エルクは草食動物ながら、その堂々たる枝角と体躯は逞しく美しく、王者たる風貌をしています。立派な角は、春には落角し再び新たな角が生え始める。凍てつく冬に終わりを告げ、春を迎える王者の姿である。
3D プリントをベースに表面を研磨し、幾重にも大小様々なヘキサゴンラメを蓄層させている。粘菌や触手をイメージし、その表面は虹色にそして妖艶に光輝いている。
「もけもけもの」とは、廃棄衣類を主な素材として生み出される空想の生き物で、不確かな自身の存在に対し答えを求め続ける私たちの分身のような存在だ。また、廃棄衣類とは、持ち主の思い出を蓄積している存在であり、同時に死者のメタファーでもあると考える。それらを用いて制作された彼らは、生と死のどちらともを経験し、それらがどのようなものであるかを私達に教えてくれる伝達者のようだ。
「もう使わない」と手放された花柄毛布。「もういらない」と置き去りにされた置物。この作品は、そんな役目を終えたモノたちを組み合わせて制作。作品にすることで私が勝手に再び役目を与えてしまった。
「甘蕉」を制作するきっかけは、無釉の磁器が果物の質感に似ているという気付きからである。東京藝術大学卒業制作展の作品に取り組んでいる時に生まれた「甘蕉」は、思考から造形が立ち上がっていて、成型も絵付けも上出自身が行っており、それ以来、上出はライフワークとして作り続けている。《数珠甘蕉》は、甘蕉29本が紐で繋がっており、上出の「甘蕉」としては最大の作品である。
2020年コロナのパンデミックの時期に制作した作品。褐色の素焼の状態に白釉を施しているため、通常の釉薬を施していない作品「甘蕉」の青白さとは違い、素焼の色が白釉越しに薄っすら肌色に見える。人と距離を取らざるを得なかった頃に、人の温もりをイメージし、人肌を表現した作品だ。
磁器の特徴的な、上出長右衛門窯が得意とする染付の色彩で、地紋と捻文や丸紋などの幾何学文を緻密にデザインした祥瑞文様が全体に描かれている。発想が形となって立ち上がるのが上出作品の特徴である。
髑髏は死、一面に過剰な程描かれた四季折々の花は生への欲求と捉えられる。当時この「花詰」という文様は、けばけばしいものとして嫌厭され次第に忘れ去られつつあった。そこであえて髑髏の形に絵付することで「再生」を象徴させる意図を込めた。発想が形となって立ち上がるのが、上出作品の特徴である。同作品を金沢21世紀美術館が収蔵している。
生き物の姿を借りて想念を具現化した、象徴的な彫刻を制作。レジン作品は、木彫作品を基に土屋の工房にてシリコンで型を取り、作家自身が1点ずつ彩色を施している。
覗き窓がある楯と鉾を持つ猫神。
内に秘めた欲望の象徴であるウサギのマスクをかぶった子供は、隠すことで自己表現や意思表示を行っています。マスクの下では大きなエネルギーが静かに燃えている。